古座谷醇氏 ( 1923 – 2017 ) を偲んで

 本年、6月4日に WAAJ 会員、古座谷醇氏が94年間の人生を全うされた。半世紀以上前の一時期、Madison で氏とともに留学生活を送った一人として、当時の生活を回想し、その一断面から氏を偲んでみたい。
 氏は 1923年、大阪に生まれ、芦屋を経て、長年、京都に在住された。1948年、京大医学部薬学科を卒業、同助手を経て1957年に博士号取得後、藤沢薬品に入社され、同社の製剤研究システムを確立し、新製剤の研究、開発を成功させるとともに、日本の製剤研究の発展にも大きく貢献された。私は学生時代に、氏から物理化学実験指導を受けたことがある。
 氏は1962 – 1963 の一年間、藤沢薬品からWisconsin 大学薬学部の Takeru Higuchi 教室に博士研究員として留学された。偶然、私も同時期、同教室に研究助手として留学する機会を得た。1962年は堀江謙一氏がヨットで太平洋を単独横断し、1963年はJohn F. Kennedy大統領がDallasで痛ましい事件に遭遇された年である。
 留学先のT.Higuchi教授 (1918 – 1987 ) は日系二世で、それまで一世紀以上、続いてきた古典的製剤研究に物理化学を導入した物理薬剤学 (Physical Pharmacy)を創出し、物理薬剤学の父と呼ばれた。その後、Wisconsin 大学、Kansas大学の教授を歴任され、薬物送達システム(Drug Delivery System)のベンチャー企業を、世界で始めて起業された方でもある。
 当時、T.Higuchi教室には、世界中の精鋭製剤研究者が研鑽に集い、日本からは氏の他に、長谷川淳氏(東大)、中野真汎氏(京大)、岡田隆三氏(三共)、宇野弘氏(三共)、田中咸子氏(ライオン)、矢敷孝司(武田)らが留学していた。なお、同教室への日本からの留学生は最終的には50人を超え、彼らは帰国後、日本における製剤研究をリードし、その発展に貢献した。氏は同教室では確か、コリンエステラーゼ阻害薬の安定性につき研究されていたと思う。
 Wisconsin 大学における留学生活については、当時もMadisonには、たとい貧しくても志高く、日々研鑽に励む博士研究員を含む若い日本人留学生が集っていた。幸いにも、薬学部の久保田晴寿氏(徳島大)、小林茂氏(徳島大)、獣医学部の荒川皓氏(阪府大)、農学部の中尾義雄氏(武田)、心理学部の竹村研一氏(筑波大)、法学部の松田保彦氏、経済学部の黒川正明氏(野村)、歴史学部の明石紀雄氏、文学部の千葉哲郎氏らの知遇を得た。彼らの多くはフルブライト奨学生であったが、それ以外に大学、企業からの派遣生もいた。
 当時は、カラーテレビが出始めた頃で、スマ-トフォンやコンピュータはなく、留学生には日本は遠く、ホームシックに悩まれる方も多かったが、ユニオン、日本人会、国際学生クラブなどによる各種イベントを通じて、お互いに交流し、励まし合った。
 氏は当時39歳で、家族を京都に残し単身で留学されていた。Nakomaに下宿し、毎日、黒のOldsmobileで植物園を通ってPharmacy Buildingへ通っておられた。途中の206 North Millsに竹村氏、中野氏と私の下宿があり、荒川氏らと親しくしていたので、下校時によく立ち寄られた。氏は私共より年齢が一回り上で兄貴的な存在であったが、年齢や日本における肩書きを超えて、文化、芸術、スポーツを始め、人生全般にわたって、お互いに本音で語り合えたのは幸せであった。
 私共は、氏の車でMadisonとその近郊によく出かけた。夏には、Mendota 湖畔で開催された日本人会主催のバーベキューパーティーに参加したり、冬には、Camp Randall Stadiumへ、フットボール試合を見に行った。当時、Badgersは滅法、強かったので、”On Wisconsin”や”Varsity”を精一杯、歌って応援した。国際学生クラブのパーテイでは、徳島大の久保田氏がエジプトの音楽に合わせて、披露された本場の阿波踊りを楽しんだ。また、地元の建築家Frank L. Wrightが設計した建築物を見学したり、冬の寒い夜にはMilwaukeeまで旨いシナモンコーヒを飲みに行ったりした。約240 km離れたChicagoへもハイウエイI-90を通って度々、訪れた。“Cicero地区でエンストでもすると、何もかも盗まれる”という噂を気にしながら、美術館などを回った。学部主催の製薬企業見学にも参加し、IndianapolisにあるEli Lilly社を鉄道で訪問した。夜、映画館で“アラビアのロレンス”を見せてくれた。
 ある日、Madisonのレストランで食事中、外国人夫妻が小学生ぐらいの男の子を連れて入ってきたのを見て、氏は突然、涙ぐまれたので驚いた。その後、京都に残してきたご子息、ご家族を思い出されたためと知り、胸が熱くなった。
 氏のOldsmobileは、その後、夜間の当て逃げにより、左後部に大きな凹みが残ったが、それでも一緒に、MinneapolisやNiagara Fallなどを訪問した。さらに、氏は約1600 km離れたNew Orleansを単独、車で訪問し、私共を大いに驚かせた。
 氏は本質的には情の人とお見受けしたが、大胆さと繊細さを兼ね備えたユニークな感性の持ち主でもあった。それらは多分、旺盛な好奇心と洗練された京都人の“ゆとり”と“こだわり”によるものであろう。異文化に関しても、始めから異物として身構えるのではなく、まず自らその中に飛び込んで、その後に、氏独自のセンスで判断し対応されていたように思う。
 氏の一貫した生き方は日本人のみでなく外国人にも理解され、親しい外国人友人も多かった。私共、日本人仲間や同門のArthur Hurwitz博士らは、その後も折に触れ、氏とその生涯にわたって、親しく交流を続けた。
 氏は晩年、留学の一年間は最も楽しい人生のハイライトであったと、よく懐かしそうに述懐されたが、私共も同感である。短期間ではあったが、喜びも悲しみも共有した掛け替えのない大先輩を失ったことは本当に辛く、淋しい。
 故人のご冥福を心よりお祈り致します。

矢敷 孝司
(武田薬品、日本イーライリリーを経てNPO医薬品食品品質保証支援センター特別顧問)

古座谷醇氏(左)と私(1962年マデイソンにて)

古座谷醇氏(中)、荒川皓氏(右)と私(2005年 WAAJ総会、ホテルグランヴィア京都にて)

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